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嶋吉一裕STORY

2018年6月11日

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STORY

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皆さま、初めまして!

婚活KOKO結婚カウンセラーの「嶋ちゃん」こと嶋吉一裕です

4月生まれの牡羊座で、身長低いことが
メチャメチャコンプレックスな54歳の
2人の娘の父でもあります。

小学校の低学年までの学校の先生からの評価は、
しっかりしていてクラスでの兄貴分のような存在と
家庭訪問で母はよく言われたそうです。

信じられないことですが、そのころ、私の身長は
クラスの真ん中よりやや後ろぐらいでした。

ところが、周りの友達に背をどんどん抜かれ、
大阪市立三稜中学入学時は145センチで
クラスで一番のチビでした。

その上、学校の規則で丸坊主!
このままでは彼女もできないと思い
身長を伸ばして女子にモテたい
という単純な理由でバレー部に入部しました。

朝練、放課後の練習と自分なりには
一生懸命頑張ったのですが、身長は大きくは伸びず、

周りの友達が、
「寝ているとき身長が伸びてるのがわかるねん」
「ぐぎぃっと膝が音しよる」なんていう会話を
うらやましいなぁ~と聞いていました。

親に、ぶら下がり健康器を買ってもらったり、
何万円とする身長伸びるメソッドを試したり
しましたが、結果は160センチ止まりで
高校進学を迎えます。

進学校(笑)大阪府立住吉高校に入学。

ここでもまだ身長を伸ばすことをあきらめず、
バレー部に入部、来る日も来る日も練習に
明け暮れた結果、身長は3年間で3センチだけ
伸びました!うれしかったなー。

高校3年の5月にバレー部を引退、
学年564人中成績が440番だった私は、
この時点で国公立大をあきらめ
3教科だけ勉強すればいいいわゆる

「私立文系」を選択しました。
これは言わば、浪人回避の逃げでして、
国公立受験とプライドを捨てる選択でした。

関西の私学を6つ受け、どこか受かる
だろうと思っていましたが、
さかの全敗! 全敗ですよ、全敗(笑)、、、

華やかなキャンパスでなく難波の大阪予備校
へ入学、浪人生になりました。

これまでの人生で一番の挫折とショック
を味わいました。

親に申し訳ない気持ちがいっぱいで、
当時付き合っていた彼女とも別れ、

友達の遊びの誘いもすべて断り、
予備校が閉まる時間まで自習室に
残り勉強しました。

やれば結果はついてくるもので、
偏差値も45から65くらいまで上がりました。

今思うとあの浪人時代の一年の集中力と
勉強量は半端ではなかったと思っています。
なんせ、一日15時間くらい勉強していましたから。
最後、日本史など覚えることがないくらいでした(笑)

あの一年の経験が社会人になった
今でも生きていると思います。

そう、
「今の結果は過去の自分からしか生まれない」
と実感しています。

入試シーズンに突入し親に無理をお願いし、
7つ受験させてもらい、6つ合格することが
出来ました。

あーこれで浪人は終わる、
もうあれほど勉強しなくていいんだと思い、
キッチンの石油ストーブの前で母と
うれし泣きしたのを今でもはっきり覚えています。

1984年4月、
第一志望だった関西学院大学経済学部に入学。
大学に入学すると身長は止まり163センチの関学生に。
ちっちゃいですわ〜、モテませんわ(笑)

こうなったら清潔感をモットーに
おしゃれに気をつかおうとバイト代の
大半を服代に回しました。

当時はユニクロやH&Mなどの
ファストファッションなどは存在せず、
結構な値段がしましたがいろいろと
買い揃えました。

そうです、デザイナーズブランドが
大流行していた頃です。アイビーファッション
にもはまり、当時「メンズクラブ」という
誌に2度載ったんですよ。

その掲載号いまでも自宅にあります!

大学では夏はテニス、冬はスキー、
春と秋はディスコでパーティーという
ナンパなサークルに所属。

ここで一生付きあえる友人に出会い、
今でもいい刺激をもらっています!

当時はバブル到来で、真夏の就職活動は
とても大変でしたが、1社から内定を頂戴し、
あとは卒業を待つのみとなりました。

卒業前に友人3人とアメリカに卒業旅行
に出かけ、当時女子大の3年生で友人2人で
ツアーに参加していた今の奥さんに
出会いました。おーーーー!

きっかけはニューヨークの ミュージカル
「コーラスライン」を見に行く時でした。

僕から彼女たちに声をかけ、一緒に
行きませんか?と。
ところが、彼女たちは旅行会社にチケットを
頼んでおり、すでに入手しておりました。

僕たちは開演のずいぶん前から並んで当日券を
買い求め、席はずいぶん離れましたが、
同じミュージカルを見たことで共通の話題が
でき、少し距離が縮まった気がしたのを今でも
明確に覚えています。

その後、ロス、ハワイとツアーを続け、
写真を撮りまくりました。この写真が
あとあと大きな効力を持つことになるのです!

そうです
「帰国したら写真を送るから住所を教えて」
と写真を住所を聞く口実に使うのです!

自宅の住所を聞くのですよ。
当時は携帯もスマホもありませんからね、
頼れるのは自宅の住所と電話番号なのです。

その後、苦労して住所と電話番号を入手し、
帰国後、自宅に電話し、旅行に行ったメンバーで
再会するアポを取付け、見事に写真を
渡すことに成功しました。

しかし、楽しいことは続きませんでした。
いいコミュニケーションを持ち始めたころ、
僕の配属が東京になりました。

そのことを彼女に電話すると、新大阪まで
見送りに行くと言ってくれ、本当に
新大阪まで見送りに来てくれました。

今思うと赤面ものですが、
大好きな大阪の地を離れることと、
彼女と離れ離れになることが寂しくて
新大阪駅のホームで泣いてしまいました。

ここから3年間の
東京ー宝塚の遠距離恋愛が始まりました。

僕は千葉の会社の寮に入り、
彼女は大学4年生の実家暮らし。
連絡手段は公衆電話か手紙でした。

その寮には40人ほどが暮らしていたのですが、
なんと電話は食堂に1台あるのみでした。

かかってくると、マイクで
「しまよしさーん、電話ですよー!」と
寮母さんが呼んでくれるのですが、

夜間は先輩たちが電話を取り
「シマキチ!デンワっ!女の子からーーー」
とこんな感じでした(笑)

今でも彼女の実家の電話番号は
暗記していますよ、
それくらいかけましたから(笑)

電話だけだとお互い不安になるので
必ず月一回は帰阪しデートをしていました。

3年間でJR東海に支払ったお金は
軽く百万円を超えましたねーー
それでも顔を見に帰ったものです。

JR東海のシンデレラエクスプレス
の男子版をやってました(古っ!)

そしてそろそろというタイミング
で平成4年(1992年)の6月に結婚。

今年で26年を迎えました。

身長は低いわ、 貯金はないわ、
僕の実家は大阪の下町だわ、
結構反対されたようです。

未だに、この結婚は失敗だった、
後悔していると言われていますが(笑)

あの時、勇気を出して、
電話番号聞いたこと、
再会のシーンを作ったこと
東京から毎月1回帰ってきたこと、、、

育った境遇は違えど、

東京より大阪に転勤するタイミングで
結婚を意識したことなど、

今思うと紆余曲折はあれどあきらめず、
自分の気持ちに正直に進んできて
よかったなーと思っています。

最近は夫婦二人で過ごすことが多くなり、
2週間に一回は宝塚の奥さんの実家に
ランチに行くのが二人のルーティンに
なっています。

週に1回以上もけんかする夫婦で、
お酒を飲みながら2時間くらいグダグダ
するのが二人の共通の趣味?ですが、

これまでの結婚生活でうまくいったこと、
失敗したこと、奥さんを失望、怒らせた
ことなどを、

結婚カウンセラーという仕事に生かし、
会員様の将来の幸せのお手伝いが
できればこれ以上の喜びはないと思っております。